国史跡
小田原宿の出入口として木戸門を設け、番所が置かれていた。当時の地形が国道1号の北と南にわずかに残る。一里塚は石碑の位置よりさらに南側にあった。
北条氏政が建てたと伝わる稲荷社で小田原宿の出入口の象徴となっていた。稲荷社の西側に回り込む部分が当時の東海道である。
戦国時代に北条氏から厚い崇敬を受け、江戸時代には宿内19町の総鎮守で、旅人たちが安全を祈願していたとされる。
小田原宿に4軒あった本陣のうちの筆頭。清水金左衛門家は江戸時代に町年寄も務め、宿場や町政の運営に携わっていた。
片岡家は本町の町名主でもあった。清水金左ヱ門本陣とともに、明治天皇が宿泊した行在所として市の史跡となっている。
国史跡
江戸時代には小田原藩の藩庁があった。石垣と漆喰(しっくい)塗りの白壁や復元天守、城門などは城下町時代の名残りを伝え、小田原宿のシンボル的存在でもある。
大雄山最乗寺の杉で作られているため魔除けにもなり、破れにくく丈夫で懐中に収められることが「三徳」とされた。実用的で旅のお守りともなる、小田原発祥の旅の道具であった。
相模湾で揚がる鮮魚を加工した蒲鉾を、周辺の温泉宿などで販路を拓き、小田原の名物に育てあげた老舗群。
歴史的な木造建築物も複数残る。
小田原は相模湾の豊富な資源に恵まれ、古くから漁業や水産加工業が発達。蒲鉾の一大産地として知られており、宿場町の料理やお土産のみならず、東海道を通じ江戸で販売されていたと記録されている。
江戸時代初期より東海道に面する旧中宿町にあり、薬種商を営んできた老舗。関東大震災で倒壊した旧店舗の材料を用いて大正14年(1925)頃に完成した現在の店舗は重厚な風格を継承し、往時の景観を今に伝えている。
箱根口にある戦国時代から続く薬商。外郎(ういろう)家は北条早雲に招かれて小田原に移住。江戸時代には宿老を務めた。家伝薬を販売するとともに、菓子の「ういろう」も製造販売。東海道を往来する旅人に知られていた。漆喰塗りの八ツ棟造りの建物の奥には蔵を利用した博物館があり、伝来の史料を展示している。
文化・文政期(1804~1830)以降、小田原宿の旅籠では、箱根越えのため朝立ちする旅人の弁当に梅干しが重宝され、盛んに生産された。『東海道中膝栗毛』でも小田原の名産品として紹介されている。
早川の水を板橋付近から取り入れ、東海道沿いに水路を造り城下へ流した上水道。北条氏康の時代には存在が確認でき、日本最古の上水道といわれている。
江戸時代に宿場間に置かれた間の村のひとつ。宿泊はできなかったが、休憩ができる茶屋もあり険しい山道を行く旅人で賑わった。
異なる色の天然木を組み合わせて模様を作る寄木細工は、江戸時代から畑宿で盛んに作られるようになり、旅人の土産物として街道筋に知れ渡った。
国史跡
江戸日本橋から23里目にあたる一里塚。直径約9mの円形に石積を築き小石を積み上げて土を盛って復元。塚の上には標識樹となる樅と槻が植えられた。
国史跡
箱根峠に向かう登り二町あまりの坂道。
かつて付近に西海子の木があったためその名がついたとされる。
江戸時代から続く街道沿いの茶店。囲炉裏のきられた茅葺の建物で甘酒が名物。旅行者が休憩するための施設として今も賑わう。
国史跡
雨の日には脛までつかる悪路と言われた東海道に、延宝8年(1680)に石を敷き詰め石畳の道にした。峠道の石畳の規模は当時日本随一。
富士山を背景に、箱根の山々に囲まれて清らかな水を湛える芦ノ湖。その畔に建つ箱根神社は、箱根の山々を祀り、参詣に立ち寄る多くの旅人で賑わった。
国史跡
江戸時代に旅人を夏の日差しや冬の風雪から守るために杉を植えて並木を作った。冷涼湿潤な気候を好む杉の並木は東海道唯一で、天を衝く巨木400本あまりが街道の両側に連なる。
国史跡
江戸時代、旅人の往来を監視するために箱根に置かれた関所。徳川幕府は、箱根山を江戸の防衛のために重視。関所は小田原藩によって管理運営され、特に「出女」に対しては、厳重な取り調べが行われた。
国史跡
坂道の途中に、かつて豊臣秀吉ゆかりとされる兜石があったことから甲石坂と呼ばれた。箱根竹におおわれた坂道は往時の風情を伝えている。
国史跡
街道のすぐ南側に1基残る一里塚。塚の上には、アセビやツツジが生えているが、江戸時代の記録には塚に木は植えられていないと記されている。
国史跡
江戸時代の絵図には6ヶ所の石橋が描かれており、発掘調査で出土した「一本杉の石橋」が往時のままの姿で保存されている。
国史跡
小田原防衛のため後北条氏により築城され、天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原攻めにより落城した。堀底をワッフルのように掘り残した「障子堀」がみどころ。街道を挟んで城が築かれ、関所の役割も担っていた。
国史跡
腰巻地区の石畳の下からは山中城の堀の跡が出土。山中城の岱崎出丸(だいさきでまる)の堀を一部埋め立てて街道を造ったとされる。
浅間平地区冨士見平は、江戸時代の旅日記『東街便覧図略』にも富士山の眺望地点として描かれた。一部の区間はトンネルの上に石畳が復元されている。
東海道を通行する旅人に広く知られた富士山の眺望地で、旅日記や絵画などに記録された。付近には、箱根越えの時に詠んだとされる松尾芭蕉の句碑がある。
江戸時代の石畳設計書に「水はき」と記載されている「斜めの排水路」が現在も残る。一部の区間はトンネルの上に石畳が復元されている。
国史跡
笹原新田は、東海道の整備にともない開かれた5つの新田集落のひとつ。このあたりまで峠道を下ると視界が開け、駿河湾と伊豆半島を一望できる。
国史跡
街道から少し離れた南側の高台に1基残る一里塚。塚の上には椎などの木が生えているが、江戸時代の記録には松と記されている。
街道沿いの新田集落の人々は、明治になり通行量が減ると、箱根山西麓の山肌を開墾。耕作地を広げ畑作に生活の糧を求めた。富士山を背景にした大根干しは三島の初冬の風物詩となっている。
伊豆半島最大の観音菩薩坐像と脇侍として不動明王、毘沙門天立像を祀る。観音菩薩坐像を背負った旅の僧がこの地で動けなくなり、菩薩のお告げと思い庵を結び像を祀ったという伝承がある。
国史跡
街道の両側に一対2基残る一里塚は、東海道では7ヶ所のみ。塚の上には榎があるが、江戸時代の記録には、南側は榎、北側は松と記されている。
国史跡
西坂を下り、三嶋大社へと続く旧街道沿いに残る松並木。約1km 続く松並木は現在の東海道では最長。源頼朝に因む初音ヶ原の地名が残り、富士山の眺望地でもある。
仮名文字で印刷された日本最古の暦とされる。文字の美しさ、線の繊細さに定評があり、東海道土産としても知られた。暦師の館は三嶋暦を製造・販売してきたと伝えられる河合家の旧宅を活用した博物館となっている。
国重文
伊豆の国一宮として、源頼朝をはじめとした武家の崇敬を集めた。本殿・幣殿・拝殿は国の重要文化財。宝物館には、国重文に指定された収蔵品が展示されている。
三島宿の中を流れる複数の小河川は、富士山の湧水を水源とする清流で、宿場の人々の生活用水、灌漑用水として使われた。旅人もこの水でのどを潤し、夏は水辺で涼を取った。
三島宿に時刻を知らせるため、寛永年間(1624~1643)に三石神社境内に設置された。江戸時代から旅人や三島宿の人々に親しまれており、三島八景の一つにも数えられていた。
三島宿の人々は鰻を三嶋大社の神の使いとして保護。幕末に薩摩の兵が食しても神罰が下らなかったことから三島でも食べられるようになったという。三島の鰻は富士の湧水と職人の技により名物として知られる。